古着を着る

 わたしは普段使いの服はだいたい古着で済ませているのだが、それはどうしてかというと、値の張る服なんぞ着ると、何かこぼして汚すんじゃないか、どこかに引っ掛けて破けるんじゃないかと、始終気を張っていなければならず、疲れるからです。つまり、ストレスになるのだ。

 

 そういえば5年ほど前にテレビ局のなんとかいう番組の密着?取材を受けたときに、2万円くらいする服を買ってもらうことになり、まあその服はそれなりにお洒落で可愛かったので気に入っていたのだけど、いつだったか道に飛び出していた金網の端に引っかかってビリビリに裂けてしまった。

 

 一族郎党にクリスチャンはいないが、奇縁で昔から聖書に親しむ環境はあったためだろう、服は裂けていて頭には塵を被っているくらいの姿勢が謙虚で良いのだという感覚もあり、それに古着なら下北沢辺りで買えば700円前後でラーメン一杯と同じくらいだから、だいたい1シーズン着れば元は取れるのである。

 

 そうはいっても、安ければ何でもいいということではない。昔、サークルの新歓イベントで本郷近辺であるし秋葉原や上野で遊ぼうというツアーを企画したのだが、このときに当時の先輩に上野の全品100円くらいの変な古着屋に連れていってもらったのだった。が、この店は安かろう悪かろうで、もっぱらゴミに値札がついているようにしか見えず拍子抜けした。



 古着を買う楽しさは、新品を買うのと違って商品自体を狙い撃ちすることができないから、事前に頭のなかでファッションの全体イメージを固めておかないといけないという点にあると思う。それさえ固まれば、あとはそれに合う服を見つけるだけでいいし、だいたいこのやり方で大学の学部生の頃以来やってきた。「探偵」とか「カダフィ大佐」とか、テーマごとに色々やった。

 

 しかし、こういうのはとにかくインスピレーションがだいじで、最近はインプットが足りないせいかめっきりダメである。高円寺や下北沢もぞっとしないし、仕方がないから淘宝網で買ったりする。中華街も楽しいが、これは感染症がもう少し落ち着かないと行けないだろう。



“ツイフェミ”的

 “ツイフェミ”という言葉は手垢のついた言葉だし、私の観測範囲ではミソジニーの気がある人が使っているきらいがあるので本当なら使いたくないのだが、すでに流通している言葉を勝手に変えるわけにもいかず、ここでは仕方がないので使う。

 

 知人のRTで流れてきたツイートだが、『鬼滅の刃』でヒロインの竈門禰豆子のキャラクター造形が現代日本の女性蔑視の象徴だと述べているものがあった。

https://twitter.com/FeminiV/status/1346600911544623104

 

 この人は別のツイートで「同性愛は治すべき」などというホモフォビア丸出しの発言をしているし、まあ釣り垢だとは思うが、こういう読解をする人は他にもいそうな気がするので一応書いておく。

 

 登場人物の造形からこういう解釈を引き出すのなら、その登場人物がその後の物語展開でどのような役割を果たしていて、それがどういう効果をもたらしているのかまで考慮にいれないとまるで意味がない。

 

 

 たとえば禰豆子なら、鬼だけれども通常の鬼とも違うややマージナルな存在として描かれていたりだとか、アニメの6-7話では炭治郎の危機を極めてアグレッシヴに救う描写があったりするのに、そういった事情を一切無視しているという点からしても、上記の同性愛差別主義者の読解はただの誤読である。

 

 ちなみに個人的には『鬼滅の刃』の面白さがあまりわからず、ほぼ義務感でアニメを履修しているのだが(半分くらいまで来た)、どのあたりが魅力的なのだろうか?教えてほしい。



ゴーストライターの話

 何年か前の話になるが、佐藤優ゴーストライターをやっていたと自称する人に飲み屋で会ったことがある。あまりちゃんと読んだことはないが、多筆な人なのでこういう話も出てくるのだろう。そのゴーストライター氏とは連絡先を交換したわけでもなく、真相は藪の中である。



 このように、それなりに名が知られている人の中には、とくにその人の本業が文筆ではない場合には、「ゴーストライター」なるものがつくことがあるらしい。当人が多忙で書いていられないというのに加えて、すでに名前だけで売れるからだ。いわゆるタレント性というやつである。



 だが、自分が書いてさえいないものが自分の名において刊行され、しばしば本にさえなるというのはどういう気持ちなのだろうか?私は、本や雑誌の記事は言うまでもなくnoteやブログなども、ひとたび公にした以上は筆者はその内容に責任を負うべきだと考えているので、自分が書いてもいない文章が自分の名前で出されるなど、無い責任を押しつけられているようで我慢ならない気がする。



 とはいえ、古典文学では偉人や有名人に仮託して書かれたものも珍しくないわけだし、弾劾されることもない。だから、こういう発想も多分に近代的ではあるのだろう。要するに、それがゴーストライターの書き物だと分かっていればそれでいいのである。それがわからないから困るのだが。



昔の友人のこと

 もう疎遠になって久しいが、昔Twitterで仲良くしていた女性がいた。まだ覚えている人もいるかもしれないが、仮にMさんとしておく。Mさんは両班出身で、高麗時代には王族だった家系の生まれだと言い、常日頃よりそうした視点からの世評をTwitterに書いていた。「王族として相応しいふるまい」だとか「日本の皇族評」だとか傍から見ていると他愛ない話ばかりで、太宰の『斜陽』冒頭を彷彿とさせもした。「高貴なスープの飲み方」などというやや滑稽な仕草を実演していたかず子も、確かに没落貴族ではあった。



 その後、韓国を訪れたときに、何人かで初対面のMさんと食事をしたこともあった。が、ケジャン(蟹)など食べることになったせいで、話はまったく盛り上がらなかった。



 さて、Twitterというのは変わり者しかいないわりに、実社会ほどではないとはいえ他の変人には厳しいという不思議な場所である。私の知らないところで疎まれていたのだろうか、そのうちにTwitterをやめてしまわれた。私まで「君は君主制に批判的なのに、彼女に対しては好意的なのはおかしい」と言われる始末であった。



 確かに私は王制(天皇制)には批判的だが、王家に生まれたからという理由で批判などしない。そんなものは門地差別でしかないし、その人にはその人の置かれた立場や背負っているものがあるのだ。

 

 Twitterをやめる前にDMでメールアドレスを送ってくれたのだが、いつのまにか紛失してしまった。私が博士課程に入る頃には東大に留学するという話もあったのだが、どうしているのだろう。ケジャンの時の記念写真は、まだiPadの中に残っている。