夕方くらいから指に違和感があり、先ほど帰宅してよく見てみたら、棘が刺さっていたので抜いた。

 

棘といえば、小学生のころ棘を抜いてもらいに保健室に行ったら、養護教諭が持ち出してきた毛抜きが、当時の自分には初めて見る道具だったのでおそれをなして「やっぱりいいです」と断って教室に戻ってきたら、担任になぜかクラス全員の前で「〇〇さんは棘を抜かずに、刺さったまま帰るらしいです」と宣言され、「なんぞ?」と思った。

クリスマスナゲット

北米からの輸入遅延だとかで、マクドナルドのポテトM/Lサイズが販売休止になるらしく、記念に急いで買ってきたが、店頭には「みんなで食べると、おいしいね」とかいうチキンマックナゲットの広告が出ていた。



クリスマスにはユダヤ人は中華料理、日本人はケンタッキーを食べる所以を説明した記事が先日出回っていたけど、よりによってクリスマスチキンをケンタッキーじゃなくマクドで買う人などいるのだろうか?少なくとも私は長いあいだ食べていない気がする。



そういえば昔、友人の女性が「マクドのチキンナゲットってほんとはカラスらしいよ」(もちろんデマ、ただし冗談)と言っていたが、それならチキンじゃなくてクロウナゲットだろうと思った。



ブログが書けない。。。

 このブログを始めたときは、三日にいっぺんくらいは更新しようと思っていたのに、気づけば二月から更新していない。なにか書くときに、Twitterで書くなら長いがnoteで書くなら短いというような事柄を書こうと思っていたのに、結局はTwitterで代用していたように思う。



 Instagramなんかも今年はがんばろうと決意していたのに全然やってないなあと思いアカウントを見てみたら、去年の六月で更新が止まっていた。つまり決意していたのは昨年だったのである。いま見返すと文体もだいぶ無理をしている。そもそも画像にキャプションをつけるような形式が自分には合っていないのだ。コロナ以降はどこかに遊びに行くこともないし、あげる写真だってラーメンかアルコールか本くらいしかないのであって、そんなの誰もみたくないでしょ?



ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の誤訳について(2)

思い出したので付記。

1-3「ジェンダー ────現代の論争の不毛な循環」p31, 11-12行目。

 

 

もしもボーヴォワールが言うように「身体は状況である」ならば、文化的意味によってつねにすでに解釈されてこなかった身体に頼ることはできない。

 

 

 

とあるが、これでは文意不明瞭。

原文では、

 

If “the body is a situation”, as she claims, there is no recourse to a body that has not always already been interpreted by cultural means; ……

(Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity p12.)

 


と、meansは複数形になっているし、「文化的意味」ではなく「文化的手段」と訳すのが正しい。そもそもmeanには「意味」という訳語はあるのか?調べた限りでは出てこなかったが。名詞ならmeaningになるんじゃないかと思う。

口調、あるいは話法についての内省

 大学入学以後しか知らない人からすれば意外かもしれないが、在阪時代の私はわりあい無口な方だった。人の話を一方的に聞いて端的なコメントを出すくらいのことはしたし、あるいは内輪ではそれなりに喋ったかもしれないが、いろんな人と会話を楽しんだ記憶はあまりない。

 

 

 そんな感じだったが、しがらみのない土地での再スタートというのもわざわざ東京まで出てきた理由の一つだったし、大学入学後の数ヶ月間で話法について独自研究をして、かなり意図的にコミュニケーション能力を構築したきらいがある。

 

 

 不思議なことに、ある程度だれとでも喋れるようになると、大阪弁も喋ることができるようになった。関西にいた頃はあまり得意ではなく、ほとんど標準語で話していたのである。

 

 

 さて、ところでどうしてこんな話をしているのかというと、この一年ほどオンライン生活で人との会話量が明らかに減った。一方で、Zoomを使うと、他人に向けて話している実感がないと同時に、自分の喋っている様子がつねに画面に表示される。口調や話法について見つめなおす契機になったように思う。

 


 他にも気づいた点がいくつかある。どうやら自分は会話において、他の人に比べて特に倒置法を多用するようである。また、一文を言い切って終わらず、次の文章の頭の接続詞まで言ってから息を継ぐ癖がある。話の途中で人に遮られるのが嫌いだからだ。



 検証していないのでわからないが、この傾向はオンライン化してからさらに強まったのではないかと思っている。こうした話法はZoom会議では有効だが、clubhouseにはそぐわないようなので、他にやり方を考えないといけない。



ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の誤訳について

 ブログでは軽い話をして原則として学術的な話をしないように心がけているのだが、note(せら(塩野谷恭輔)|note)は時評を書く場所にしているし、他に書くところもないのでここに書く。



 とある読書会でもう1年くらいジュディス・バトラージェンダー・トラブル』を読んでいるのだが、自分の担当箇所の訳文で妙な記述を見つけた。原文にも照らしてみたが、どうも誤訳、あるいは誤読に基づく誤訳なのではないかという疑念を拭えないのである。以下に引用する。



この名づけえない「器官」、ペニスと思われているもの(けっして発話してはならないヘブライ語ヤハウェのように扱われているもの)こそフェティッシュであるというならば、ラカン自身が考えているように、いともたやすくそれを忘れ去ることがなぜありえるのか。そして、否定されるべき「女性性の本質的な部分」とは、何なのか。かつては否定され、いまは欠如としてたち現れてくる、再度名づけえぬものとされた部分とは、何なのか。あるいは、女が《ファルス》それ自体としてたち現れるために拒否されるべきものは、欠如そのものなのではないのか。この「本質的な部分」の名づけえぬ性質とは、それを忘れる危険にわたしたちがつねに晒されている男の「器官」にまつわる、同じく名づけえぬ性質なのではないか。これこそ、女性性の仮装の中核で、抑圧を構成している忘却性ではないか。《ファルス》を確認し、よって《ファルス》となる欠如として現れるために没収されるべきものは、男性性と考えられているものではないか。つまり、《ファルス》の確認をおこなう欠如となるために否定されるべきものは、男根(ルビ:ファルス)になりえるという可能性ではないか。 (邦訳新版, 『ジェンダー・トラブル フェミニズムアイデンティティの撹乱』竹村和子訳, p99.)

 

 この章での議論は、それぞれ「ファルスをもつこと」/「ファルスであること」に分けられる、男/女の性関係についての議論を推し進めることで、それにtroubleを起こし、ラカンの議論を撹乱することが意図されている。もっともそれに成功しているのか、あるいはこのバトラーの主張がラカン批判となりえているのかということについては、わたしは一抹の疑問を抱いているのだが、それについては今日は割愛する。

 

 

 この段落では、「男性がファルスをもつこと」を保証するために、女性が「それを確認するための欠如」とされるプロセスを批判している。この「欠如になること」が、「ファルスになること」と理解されている。こうして、ファルスをめぐって「もつこと」/「あること」という男女の性関係が構築されるわけである。このように、この性関係はあくまで構築されたものであるとバトラーは語り、次にその構築のために何が女性から奪われたのか?と問いかける。

 

 

 ここで最後の文が問題になるわけだ。日本語訳を追えば、女性が「欠如」になるために取り上げられるものとは、「男根(ルビ:ファルス)となりえる可能性」であるという。しかし、そもそも「欠如になること」が「ファルスになること」なのだから、これでは文意が通らない。

 

 そこで原文を確認してみた。

 

Is it a presumed masculinity that must be forfeited in order to appear as the lack that confirms and, therefore, is the Phallus, or is it a phallic possibility, that must be negated in order to be that lack that confirms?(Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity p62.)

 直訳すると、

「ファルスを確証し、それによってファルスであるところの欠如として現れるために剥奪されなければならないのは、男性性と考えられているものなのではないか。あるいは、確証する欠如となるために無効にされなくてはならないのは、ファルス的可能性なのではないか。」

と、なる。

 

 問題になるのは、phallic possibility、すなわち「ファルス的可能性」の解釈であり、その解釈込みで訳者の竹村和子さんは、これを「ファルスになりえるという可能性」と訳したわけである。だが、orで繋がれた二つの疑問はほとんど同じ内容の言い換えであるのだから、phallic possibilityとは、「男性性と考えられているもの」と同義だとみなすべきである。したがってphallic possibilityとは、「ファルスをもちうるという可能性」と訳すべきなんじゃないか。

 

 

 竹村訳は他の箇所も、denialを「否定」と訳したり(正しくは「否認」)、あるいはjouissanceを「快楽」と訳したりしている。これは「享楽」と訳すのが普通で、「享楽」と「快(楽)」は別の概念なので、誤訳である。当時の日本におけるラカン理解の拙さを、こういったところに垣間見ることができる。

 

 

 『ジェンダー・トラブル』は2018年に邦訳新版が出ているが以上は直っておらず、竹村さんがすでに鬼籍に入られていたので、既成の訳を流用したのだろう。超がつくほどの有名本なのだし、すでに誰か指摘しているはずなのだが、軽く調べた限りだと見つけられなかった。見つけたら、また付記します。



 

 

「分捕り物」という言葉

 「分捕り物」とか「分捕り品」とかいう言葉がある。人によっては桃太郎の歌など連想するそうだが、旧約関係でよく出てくる言葉でもある。

 

 たとえば、サムエル記上30:20b

וַיֹּ֣אמְר֔וּ זֶ֖ה שְׁלַ֥ל דָּוִֽד

〈私訳〉彼らは、「これがダビデ分捕り物だ」と言った。

 



 ところで、「分捕り物」の「ぶん」とは何なのか?「メールをぶん投げる」とか言うときの「ぶん」なのだろうか?と、Twitterでつぶやいたところ、友人から以下のリンクが送られてきた。

https://katsujuku8317061.ti-da.net/e2502211.html

 

 無関係なブルース・リーの写真なんかあるし、ちょっと怪しいなーと思ったので、改めて調べてみたら、広辞苑に以下のような記載があった。



 

ぶち【打ち】

〔接頭〕

動詞に冠して強意・強勢を表す。時に促音化して「ぶっ」、撥音化して「ぶん」となる。「ぶちこわす」「ぶったおれる」「ぶんなげる」など。

 

 

 

 つまり広辞苑によれば、「ぶんどる」が「捕る」の強意であるとしたら、「打ん捕る」が逐語的には正しいわけである。

 だが、同じ広辞苑では「分-捕る」と表記されている。そして「分」の項目を見ると意味の二つ目のところに「わりあて、わけ前」と書かれているのである。「分捕り物」というのは、戦利品の意味であって、敵を打ち倒すことで所有権の取得が認められた物のことを指す。すなわち、ここでは「分」の字は「分捕り物」の意味を構成している。



 逐語的表記が意味解釈に先行するとすれば、ここで起きているのは次のようなことだ。

 すなわち、初めは逐語的に「打ん捕る」と表記されていた言葉が、次第に定着するにつれて表記自体のなかに意味的な根拠を求めることになり、いわばアレゴリー的に「分捕る」という表記が生まれたことになる



 だから結局のところ、上記リンクはだいたい正しかったわけだ。おもしろい!

ちゃんと先行研究など調べたわけではないので、もう誰かが言ってそうなものではあるが。