ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の誤訳について

 ブログでは軽い話をして原則として学術的な話をしないように心がけているのだが、note(せら(塩野谷恭輔)|note)は時評を書く場所にしているし、他に書くところもないのでここに書く。



 とある読書会でもう1年くらいジュディス・バトラージェンダー・トラブル』を読んでいるのだが、自分の担当箇所の訳文で妙な記述を見つけた。原文にも照らしてみたが、どうも誤訳、あるいは誤読に基づく誤訳なのではないかという疑念を拭えないのである。以下に引用する。



この名づけえない「器官」、ペニスと思われているもの(けっして発話してはならないヘブライ語ヤハウェのように扱われているもの)こそフェティッシュであるというならば、ラカン自身が考えているように、いともたやすくそれを忘れ去ることがなぜありえるのか。そして、否定されるべき「女性性の本質的な部分」とは、何なのか。かつては否定され、いまは欠如としてたち現れてくる、再度名づけえぬものとされた部分とは、何なのか。あるいは、女が《ファルス》それ自体としてたち現れるために拒否されるべきものは、欠如そのものなのではないのか。この「本質的な部分」の名づけえぬ性質とは、それを忘れる危険にわたしたちがつねに晒されている男の「器官」にまつわる、同じく名づけえぬ性質なのではないか。これこそ、女性性の仮装の中核で、抑圧を構成している忘却性ではないか。《ファルス》を確認し、よって《ファルス》となる欠如として現れるために没収されるべきものは、男性性と考えられているものではないか。つまり、《ファルス》の確認をおこなう欠如となるために否定されるべきものは、男根(ルビ:ファルス)になりえるという可能性ではないか。 (邦訳新版, 『ジェンダー・トラブル フェミニズムアイデンティティの撹乱』竹村和子訳, p99.)

 

 この章での議論は、それぞれ「ファルスをもつこと」/「ファルスであること」に分けられる、男/女の性関係についての議論を推し進めることで、それにtroubleを起こし、ラカンの議論を撹乱することが意図されている。もっともそれに成功しているのか、あるいはこのバトラーの主張がラカン批判となりえているのかということについては、わたしは一抹の疑問を抱いているのだが、それについては今日は割愛する。

 

 

 この段落では、「男性がファルスをもつこと」を保証するために、女性が「それを確認するための欠如」とされるプロセスを批判している。この「欠如になること」が、「ファルスになること」と理解されている。こうして、ファルスをめぐって「もつこと」/「あること」という男女の性関係が構築されるわけである。このように、この性関係はあくまで構築されたものであるとバトラーは語り、次にその構築のために何が女性から奪われたのか?と問いかける。

 

 

 ここで最後の文が問題になるわけだ。日本語訳を追えば、女性が「欠如」になるために取り上げられるものとは、「男根(ルビ:ファルス)となりえる可能性」であるという。しかし、そもそも「欠如になること」が「ファルスになること」なのだから、これでは文意が通らない。

 

 そこで原文を確認してみた。

 

Is it a presumed masculinity that must be forfeited in order to appear as the lack that confirms and, therefore, is the Phallus, or is it a phallic possibility, that must be negated in order to be that lack that confirms?(Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity p62.)

 直訳すると、

「ファルスを確証し、それによってファルスであるところの欠如として現れるために剥奪されなければならないのは、男性性と考えられているものなのではないか。あるいは、確証する欠如となるために無効にされなくてはならないのは、ファルス的可能性なのではないか。」

と、なる。

 

 問題になるのは、phallic possibility、すなわち「ファルス的可能性」の解釈であり、その解釈込みで訳者の竹村和子さんは、これを「ファルスになりえるという可能性」と訳したわけである。だが、orで繋がれた二つの疑問はほとんど同じ内容の言い換えであるのだから、phallic possibilityとは、「男性性と考えられているもの」と同義だとみなすべきである。したがってphallic possibilityとは、「ファルスをもちうるという可能性」と訳すべきなんじゃないか。

 

 

 竹村訳は他の箇所も、denialを「否定」と訳したり(正しくは「否認」)、あるいはjouissanceを「快楽」と訳したりしている。これは「享楽」と訳すのが普通で、「享楽」と「快(楽)」は別の概念なので、誤訳である。当時の日本におけるラカン理解の拙さを、こういったところに垣間見ることができる。

 

 

 『ジェンダー・トラブル』は2018年に邦訳新版が出ているが以上は直っておらず、竹村さんがすでに鬼籍に入られていたので、既成の訳を流用したのだろう。超がつくほどの有名本なのだし、すでに誰か指摘しているはずなのだが、軽く調べた限りだと見つけられなかった。見つけたら、また付記します。